今さらながら東京オリンピックについて独り言をつぶやいてみる

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TOKYO2020。

諸手を挙げて盛り上がることができないままオリンピックが終わり、いつの間にか始まったパラリンピックがいつの間にか終わり、そして残っていたわずかばかりの熱気も秋風がどこかに運び去ってしまった。

数年前、明け方のテレビの開催地発表で「トキオー」の声を聞いたところから始まり、スタジアムやらエンブレムやらのごたごたがあって、チケット抽選に一喜一憂し、コロナによる一年延期を経て2021年を迎えた。

そして今年、IOC・国・都の3者の動向に世界中が注目する中、何とか無事開催された東京オリンピック。

単なるいちスポーツファンとして、少しだけ振り返ってみたい。

 

ほぼ無観客で開催された東京オリンピック

オリンピックについて思い返すと、やはりどこか切ない気持ちになってしまう。それは端的に言えばもちろん、一生に一度あるかないかという自国開催のオリンピックが、コロナによって大きく形を変えられてしまったというところに原因がある。

世論の逆風が強くて開催すら危ぶまれていたが、結局一部の会場を除いては無観客という条件付きでオリンピック、パラリンピックともに開催された。既に販売されていたチケットについては払い戻しとなった。

開催か中止か、さらにはもう一年延期かというところでは意見が分かれ、国民が二分三分されているようにも見えた。一見分かりやすいトピックなので、普段は大勢に流されやすい日本人でもこれに関しては誰もが何かしら語れる思いを抱えていたようだった。

 

私個人としては開催されるべき、あるいはされて当然と思っていたし、どうにか開催してほしいと願っていた。しかもできるなら、数に制限を設けてでも観客も入れてやってほしかった。

ただこの無観客開催というのは、落としどころとしては納得できるものだった。理想的にはあと2,3か月先であればワクチン接種率も上がってもう少し本来に近い形でできたかもしれないが、それはもう仕方がない。中止はまあ無いとして、選手のことを考えればこれ以上の延長も酷すぎる。観客を入れないという条件をつけることでなんとか大半の賛同を得られるのであれば、そこがベストな選択肢だったと思う。

もちろん我々一般人が知りえないもっと広範な、さまざまな要素が絡んでの決定だったはずだが、それは本当に知りえないところなのであまり考えてもしょうがない。これ以上は判断材料が与えられていないという境界線みたいなものがあるので、我々はわかる範囲でだけ個々人の思いを抱えることになる。

 

オリンピックが商業的すぎるという否定的な風潮もある。コロナでも開催するとか、観客入れるとか、どうせお金が絡んでるんでしょ、という人も多い。もちろんこれだけの大イベントなので相当な利権が絡んでがんじがらめなのだろうし、オリンピックが商業的だということは否定できない。

でもそのお金というのは何もIOCの上層部やアメリカの放送局のお金ばかりではなくて、国や都の財政の話でもあるので自分たちにもちゃんと関係するお金の話でもあるはずだ。感染防止と経済活動の両面を、という文言はある程度受け入れられるようになっているものの、オリンピックのお金の話、チケットの払い戻しや中止による損失の経済への影響というのはいまいち重大性が取りざたされなかったような気がする。

結局のところ、オリンピックは商業的だと否定する人たちはそもそもそれほどオリンピックが好きではないのだろうし、商業的でもいいんじゃないという人はオリンピックを楽しむことでその恩恵にあずかっている人たちなのだろうと思う。

 

オリンピックを開催すべきかどうすべきかという論争であれだけ盛り上がったのに、結果としてコロナの感染拡大に対してオリンピックの開催はどう影響したのか、という議論はやっぱりほとんどされなかった。

そういう大事な情報はだいたいもたらされないし、それ以前にあまり興味も持たれず、求められてもいないように見える。みんな議論がしたかっただけなのだろうか。本当は何が正しかったのかというところに注目しようとしないのはちょっと不思議でもある。

だから世の過ちは繰り返されるんだろうな。

 

「感染防止」と「経済を回す」以外のもう1つのもの

 

もう少しコロナ関係の話。

コロナが拡大し始めた当初、学校や文化施設の閉鎖、もろもろの自粛などについて、コロナの拡大は命にかかわるのだからこれは何をさしおいても必要なことなのだという考え方が大半を占めていた。2020年の最初の緊急事態宣言の頃だったか、ワイドナショーで松っちゃんはそれを「コロナは別腹」と表現していた。それでいいのかとちょっと引っかかったのを覚えている。

その後コロナが長期化するにつれて、経済も回さないとという考え方がだんだん浸透してきた。経済の停滞が続けば結果として生活に困窮する人口も増え、自殺者も増える。命に関わることだからとやや盲目的に自粛を叫んでいた人たちも、次第に経済と感染防止のバランスという言葉を口にするように変わってきた。

この初期の流れにみられるように、「感染防止と経済」というと「命とお金」と置きかえられてしまって経済活動にはどうも分が悪い。実際には経済だって命にかかわるし、しかもそれを数値化することだってできるのに、である。

 

個人的にはこの「感染防止」「経済」という構造の中にもう一つのキーワードを放り込めないだろうかと思う。

それは「生きがい」というものだ。

 

人はきっと、おおざっぱに言ってしまえば幸せになるために生きているのだと思う。

生きがいとはその言葉どおり、「このために生きてるなあ」というやつだ。仕事終わりにビールを飲んで「この一杯のために生きてる」というのも、まったく誇張ではなく生きがいの1つである。

これらの生きがいの集合が「幸せ」だとすれば、生きがいだって生き死にと比較できないものでは無くなる。

生きる意味=幸せ=生きがいの積み重ね

という構造である。

 

生きがいはスポーツや食、そして音楽、映画や演劇などのあらゆる文化活動から、家族や友人との時間などどこにでも当たり前のようにあるものだけど、その当たり前のようなことがコロナ禍によって浸食された。

この生きがいという部分がコロナの話題では軽視され、蚊帳の外に追いやられていたので、いろんなところで無理解や摩擦が起きていたように思う。オリンピックをやるかやらないか、観客を入れるかという議論でもそうである。感染防止や経済と違って、生きがいという価値観は人によって大きく異なるのでそうなる。ようは他人の大事なものを、ちゃんと大切に扱えるかどうかということではないだろうか。

生きがいなどどいうと、「いやそれって命あってのものでしょ」と言われるかもしれない。うん、それはそうだ。そこには運悪くコロナに感染するかどうか、さらには重症化したり死亡してしまったりという確率もかかわってくる。私だって、コロナで命を落とした人やその家族を前にして同じ主張をすることはたぶんできない。

 

そのすべてを踏まえて方向性を決めることができるのが政治の力というものだと思う。極端なことを言えば一人の命と百万人の享楽について比較検討するような、一般人にはできないことができるのも政治なんだと思う。

政治家が国が、俯瞰して総合的に判断して決めたものを自信をもって推し進めればいいのに、世論や、特定の視点からの意見としてのみ扱われるべき専門家の意見に迎合したりする。そうさせてしまう世論が問題だが、それを作っているのは結局のところマスコミだ。

 

コロナはまだ終息してはいないが様相はだいぶ変わってきていて、今さら生きがいだなんだと言っても陳腐ではあるけど、もう少しその部分が尊重されていたら、オリンピックというものがここまで邪険に扱われることもなかったのではないかと考えると残念な気持ちになる。

 

結局のところオリンピックを十分楽しむことはできたのか?

上の写真は2019年のオリンピッククオリフィケーションイベントの際のものだ。本来なら2020大会のトライアスロンもこんな形で観戦できたはずだった。

 

何はともあれ東京オリンピックは開催されて、すべての競技日程を無事終えることができた。異例づくめの大会ではあったが、では我々はオリンピックを十分に楽しむことはできたのだろうか。

個人的に注目していた競技はたくさんあった。誰もが注目する陸上短距離やサッカーをはじめ、水泳や柔道はいくつメダルを取れるのか、野球とソフトボールは金メダルを取れるのか、クライミングやスケボーなどの新競技はどうか、などなど興味は尽きなかった。

結果としてもメダル数は過去最多だったし、数々のスター選手が他では見られない素晴らしいドラマを見せてくれた。挙げだすとキリがないのでここで具体的な選手については触れないが、そういった意味では通常のオリンピックと同じように、期待通りに楽しむことができたと言っていい。

せっかくの東京開催なのに会場で観られなかったという点を除くと、あとはやはり会場の熱気が物足りなかった。コロナ以降無観客のスポーツ中継を観ることが増えたので、もちろんある程度見慣れてきてはいた。かつては無観客試合というと、プロスポーツで不祥事があった時や、政情不安の国との国際試合などで稀に見る程度で、その時にはかなり違和感を感じたものだ。スタジアムに観客もなく大きな歓声も聞こえてこないと、どことなくアマチュアスポーツの地区大会のような中規模の大会を見ているような気にもなってしまう。今回も随所に五輪マークやTOKYO2020みたいなロゴが見えていないと、そんな錯覚に陥ってしまいそうだった。

 

そしてトライアスロンである。

東京オリンピックでは男女個人に加え、新たに加わった混合リレーが行われた。早朝の開催で他の競技とのバッティングが少ないにも関わらず地上波で放送されなかったのは、まだまだマイナー競技ということか。

今回はBS以外にもgorin.jpなどインターネット経由でライブを観ることができたのでBSが見られない我が家でも観戦できたのだが、それが無かったら観られない(せっかくサブスクに加入しているTriathlon Liveではなんとオリンピックは放映されなかった)という悲惨なことになりかねなかった。

日本勢は女子の高橋選手や男子のニナー選手が健闘したが、やはり世界トップ10のような選手たちとの差を感じてしまうようなレースだった。この2選手は世界のトップ選手たちが揃って参加するスーパーリーグトライアスロンにも出場しているので、そういうところでじりじりと世界との差を縮めていってくれることを期待したい。

新競技の混合リレーは、ワールドカップや2019年の東京プレ大会などではこれまでにも行われていたが、オリンピック本大会で行われたのがこれが初めてとなった。リレーというと、陸上短距離リレーでの日本の活躍からなんとなく期待してしまうのだが、バトンの受け渡しが大きくレースを左右する陸上短距離と違って、トライアスロンのリレーはほとんど選手の実力の単純な足し算になる。そうするとトップ選手と多く抱えるイギリス、アメリカ、フランスなどが当然のように表彰台を占拠する形となる。

ただやはりレース形式としては面白くて、トランジションの回数も増え(1人だと2回だけど、4人なので8回になる)、人が入れ替わることで順位の入れ替わりも増える。持久系種目の観戦は冗長になってしまいがちなので、こうした方向性はトライアスロンを「観る競技」としても盛り上げる一助にはなるはずだと思う。

このようにトライアスロンを違ったレース形式でやっているのが前述したスーパーリーグトライアスロンで、スイム・バイク・ランの順番を入れ替えながら複数回続けてレースをしたり、自転車トラックのようなエリミネーター(レースの関門ごとに最後尾の選手を切っていく)があったりと、毎回違うフォーマットをさらにチーム戦として行っている。スーパーリーグトライアスロンについては短くは語れないしオリンピックとは違う話題になってしまうので、また別の機会に触れたいと思う。

 

ありがとうTOKYO2020

何はともあれ、閉会式の最後に電光表示されたように、東京オリンピックにはありがとうと言って締めたい。

常々思うのだけど、スポーツ選手にはもっと感謝の気持ちを持つべきなんじゃないかという気がする。これだけ熱く盛り上がり、楽しませてもらっているのだから、個人的には感謝しかない。それは選手だけではなく協会や関係者、オリンピックだったら小池さんや菅さん、バッハさんにだって感謝したいくらいだ。

 

スポーツ選手は結果が伴わないと、例えばサッカーの国際試合なんかだと特に、まるで戦犯のように世間からこっぴどく叩かれる。プロスポーツであればお金を払って観にきているのだからとか、選手たちはそれで食ってるのだから批判されても当然、とか言ったりもするけどそういうことでもない気がする。

お金を払って、スポーツという筋書きのない、がんばったところで結果が伴わないかもしれないエンターテインメントを承知の上で観に来ているのではないのか? 文句を言う前にありがとうだろう、と思ってしまう。

そんなだから結果を残せなかった選手が試合後のインタビューで、「申し訳ない気持ちでいっぱい」などと言うのが定型句のようになってしまっている。それを聞くたびにいたたまれない気持ちになる。

 

オリンピックだっていろいろあってせっかく開かれて、常人には想像もつかないところで5年間も戦ってきた選手たちがネット上で誹謗中傷を受けていた。スポーツに限ったことではないが、誰も得をしない無益な攻撃はなくなってもらいたいものだと切に願う。

ありがとう、東京オリンピック。

ARIGATO TOKYO.