「なんでトライアスロンやってるの?」と訊かれたらどう答える?

スポンサーリンク

「なんでトライアスロンなんてやってるの?」

トライアスロンをやっていると定期的に訊かれる、お約束の質問である。

 

もちろん質問者は非トライアスリートであり、さらに、

「あれ、トライアスロンって水泳とマラソンと、あとなんだっけ?」

とか、

「最初にどれからやるの? で結局ぜんぶで何キロなの? 」

というのも前後する。

 

「なんでトライアスロンなんて」というフレーズには、「なんでそんな過酷で疲れるスポーツを」という意味が込められている。

もちろんトライアスロンには色々な魅力があり、それをやる動機は多岐にわたる。

 

しかし、あらためてトライアスロンに駆り立てられる理由を端的に説明しようとすると、なかなかこれといったものが見つからない、という事もないだろうか。

そんなわけで我々トライアスリートは、その質問にどう答えるのが最適なのだろうと、ついつい日々思いを巡らせてしまうのである。

 

 

それってMなの?

もう少し質問者の意図を汲んでみる。

「趣味なんだからもっと楽なことやればいいのに、なんでわざわざ疲れることをやるの?」

「そもそも3ついっぺんにやらなくても良くない?」

「何を好きこのんでそんなことやってんの?もしかしてMなの?」

 

うーん、ここまで否定的ではないかもしれないが、ざっとこんなところだろう。

 

例えば男性なら、趣味というと車やバイク、ギターなどの楽器、あとは釣りなんかがメジャーなところだろう。

たしかにそれらの趣味には、やっていてつらい時間というのはそれほど無いのだろうと思う。

どれも金はかかるが、趣味に金がかかることに対しては、わりと人々は寛容らしい。

趣味に「きつさ」や「しんどさ」がともなうという事には、どうも不寛容な人が多いようだ。

 

実は私の周囲には、トライアスロンをやっている知人は一人もいない。

マラソンランナーはたくさんいて、中にはサブスリーの実績を持った人もいる。

ロードレーサーが趣味という人もいるし、元競泳選手で泳ぎは今でも得意という人もいる。

しかしトライアスリートとなると一人もいないのだ。

 

トライアスロンの人気は右肩上がりと言われて久しく、今では愛好者は35万人とか言われている。

それでもまだまだ、トライアスロンはマイナーで特別な人種がやるスポーツ、という固定観念は意外と根深い。

 

そうした背景あっての、冒頭の質問なのである。

 

 

始める理由と続ける理由

似て非なる質問がある。

「なんでまたトライアスロンなんて始めようと思ったの?」

 

こっちの方が比較的答えるのが容易な質問である。

例えば自分の場合を思い起こせば、高校入学後の部活紹介でトライアスロン部のようなものがあることを知り、「お、これいいかも」と思ったのがきっかけだった。

特にスポーツが得意でもなければ、まして持久系の競技など「中の中」から「中の下」といったところだったわけだが、どうせやるなら何かエクストリームがやってみたいと漠然と思っていたのだ。

マイナースポーツであることも魅力的に思えたし、競技として自転車に乗ることにも興味があった。

そんなところである。

こんな風に、「なんかちょっといいかも」的にトライアスロンに惹かれて始める人が多いのではないかと、個人的には思う。

 

ではトライアスロンを続ける理由って何だろう?

体にいいかと言えばそうでもない気もする。

ずいぶん注意深く続けていないと、むしろ体中こわしてしまいかねない。

楽しいかと言えば楽しいが、楽しくない時間のほうが長いと思う。

 

プロにはプロの動機や目的があり、アマチュアでもエイジグループの上位を争うようなハイレベルなアスリートには、もっともな動機と目的があるだろう。

だがここで話題にしたいのは、私のような、箸にも棒にもかからないド平凡な市民トライアスリートのことだ。

 

もちろん先に述べた通り、トライアスロンには数多くの魅力があり、動機付けならたくさんある。

でも、本当に本質的なところではもっとずっと単純な話なのではないか、という気がずっとしてならなかった。

 

 

レース中にふと思った「自分がこれをやる理由」

あるレースの終盤、その問いに対する解として、「これなんじゃないかな」と思うことがあった。

 

それは真夏に行われるスタンダードの大会で、湖を泳いでその湖畔がバイクとランのコースになっている、よくある形の市民大会だった。

私はいつも通り全体の真ん中くらいの順位に位置していて、ランの周回もあと残すところ1周か2周かといったところ。

トップの選手たちはとっくにゴールしていて、トップじゃない選手たちも続々とフィニッシュしていくのを横目に見ながらの周回、まあいつものことだ。

 

たかがオリンピックの距離とはいえ、右膝には一歩進むたびに鋭い痛みが走り、それをかばう為かふくらはぎの筋肉がしばしばつるようになり、伸ばしては走り、走ってはつりを繰り返していた。

やはりレースとなると、あきらめて歩くとか、進むのをやめるという選択肢は(良くも悪くも)頭から無くなってしまう。

一度だけ完走したアイアンマンでも、それは同じだった。

痛みをこらえて、文字通り歯を食いしばってでもゴールに向かって前に進むことしかできない。

自分以外の誰も、私がどのようなタイムでフィニッシュしようが、歩こうが進むのを止めようが、もちろん気に留めなどしない。

それでもやはり馬鹿みたいに、毎度同じように、動物的に、何とかあがきながら前に進むことしかできない。

 

で、思う。

自分がやりたいのは結局そういうことなのだろうと。

要するに、「痛みをこらえて歯を食いしばってゴールを目指す」という行為をしたいのではないか。

 

その行為を私は「闘争心の消費」みたいなものだと考えている。

「闘争心」という言葉は今でもあまりしっくりこないが、私の語彙の中では一番合っているのではないかと思う。

人間にはもともとその闘争心のようなものが備わっていて、それは私たちに使われたがっているのだけど、日常生活の中ではなかなか使ってもらえない。

使われなくてもそれは消えてしまうわけでなく、いつか使われようとその時を待って、澱のように胸の(あるいは頭の)中に溜まっているのではないだろうか。

 

であればその闘争心を正しい形で消費してあげるのが、ごく健全な行為であるように思う。

その手段の一つとして、そしてかなり効率の良い方法として、トライアスロンという選択肢がある、そんな風に考えたりする。

 

 

アイデンティティのようなもの

高校生の時に始めたトライアスロンを、一度やめて何年かたったあとで再開したことがある。

再開したばかりのころ、私は友人との会話の中で「トライアスロンはやっぱり自分のアイデンティティの一部のようなものらしい」というような趣旨のことを言った。

するとその友人は、「お前の言うそのアイデンティティって何?」と言い、私は上手い返しが見つからず、アイデンティティなどという小賢しい単語を使ったことに若干赤面してしまったのを覚えている。

 

しばらく経ったころに、自分があのとき意味したことは、「自伝が出版された時(もちろんされないが)、本の帯にかかれる人物紹介文の一部にトライアスリートという単語が出てくること」のようなことだったのだろうと思った。

 

つまりは、そういうことなのだろうと。

 

あいかわらずまとまりのない駄文になってしまった。

この記事を書いていて思ったのは、そういえばヨーロッパに住んでいた時には、「なんでトライアスロンなんて…」の質問をされたことってなかったな、ということ。

スポーツに対する捉え方のベースが、日本とあちら(もちろんヨーロッパとひとくくりにするのも少し違うが)では違う。

トライアスロンをやっている、と言った時に彼らが見せる共通したリアクションは、やはり「リスペクト」だったように思う。

 

この違いはそもそもベースが違うので、比べてどうこう言うべき類の代物でもないだろう。

ただやはりどちらかというと、「Mなの?」と訊かれるよりは、称賛されリスペクトされるほうが、ちょっとだけ気分が良いことは確かな気がする。