何度「負け」を受け入れたら人は強くなれるのか?

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子供のころスポーツニュースを観ていて、プロゴルフの勝ち負けについて疑問に思ったのを覚えている。

 

私は今でもゴルフはやらない。これまでの人生でゴルフコースというものに出たことは一度もない。

なのでゴルフのことは今でもよく分からないが、ゴルフプレイヤーが大会で優勝すると「勝ち」となるらしく、その年の何回目の優勝かというのを「今シーズン〇勝」と表現するらしい。

 

子供のころの私にとって、勝ち負けというのは、一対一の個人、あるいはチームが戦って、勝負に勝てば勝ち、負ければ負け、というものでしかなかった。

なので、優勝=勝利というのには違和感があり、ずいぶん不条理な定義であるように感じていた。

 

ゴルフだけではない。

一対一の対戦形式をとっている競技でなければ、例えばマラソンだって、スピードスケートだって、自転車だって、競馬だって、優勝=勝利なのである。

その定義からすると、優勝以外はすべて負けということになってしまう。

 

 

トライアスリートのほとんどは一生勝つことができない

トライアスロンも然りである。

エリートでは全く話が違うのだが、エイジグループでも勝てるのはほんの一握りの選手だけだ。

多くの選手は、表彰台やメダルやコナの出場権とは一生無縁なのである。

 

しかし、である。

ほとんどのアマチュアトライアスリートはこう思うのではないだろうか?

 

「それがどうした?」

と。

 

それもそのはずである。

レースの勝ち負けなどはどうでもいい、あるいは勝ち負けの定義が全く違う、というのが多くのトライアスリートに共通する心理だからだ。

マラソンにしてもトライアスロンにしても、市民レースでは、「完走者全員が勝者」のような合言葉みたいなものだってある。

それに賛同するかはさておき、勝ち負けの基準は個人的かつ流動的なものであって、普遍的なものではないということだ。

 

もちろん、レースの絶対的な勝ち負けを重視する人もいて然るべきだ。

どこに勝ち負けの境界線を作るかなどは、まったく個人の自由なのである。

 

 

「勝ち」を阻む壁の存在

勝ち負けの定義は自分で決めるものだとして、だからと言っていつでも勝てるわけではない。

自分なりにハードルを下げて勝敗のラインを決定したところで、そうそう思惑通りに物事は運びはしない。

エイジグルーパーにだっていろいろと厳しい壁が突き付けられる。

 

競技のバックグラウンドだとか

時間や金銭的な制約だとか

練習環境の問題だとか

 

その中でも、我々が勝ちに進むのを阻む壁の最たるものは、

  • 生まれ持った身体的な条件
  • 加齢

ではないだろうか。

 

残念なことにこれらは、努力や苦悩や経験といった積み重ねを、いとも簡単に超えてくる。

基本的に我々が抗えるような相手ではないのだ。

そんなものに正面から打ち勝つことはなかなかできない。

そう、何とかうまく立ち回って、だましだましやっていくしかないのである。

 

 

「負けを認めれば楽になるのに…」

昔、友人の一人とある競技で長期的に競い合っている時期があった。

最初はその競技においては私の方が経験があり、実力的にも私の方に大きくアドバンテージがあった。

しかし時間が経つにつれその差は縮まり、実力は拮抗、お互い情熱をもって競い合っていたこともあり、良いライバル関係にあったと言っていいだろう。

 

ただ私に関しては、勝ちにこだわるあまり少し息苦しさも感じていた。

もう少し砕けて言えば、徐々に実力が拮抗してしまってきていることを、不愉快に感じていたのだ。

ある時なんとなくそんな話をその友人にしてみると、彼の返答はこうだった。

 

「負けを認めればもっと楽になるのに」

 

彼の言葉のニュアンスは、単純にこのセンテンスから受ける印象とはまるで違っていたと思う。

彼の意味していた通りに言い直すとしたら、

「君はもう負けているのだから、もう諦めてそれを認めて楽になれよ」

ではなく、

「自分は、君に負けているという認識を持っている。だから失うものがなく、君より良い意味で脱力していいプレイができているのではないかと思う」

といったところだったのだろう。

 

その言葉通り、勝ちたくてピリピリしていた私に比べ、彼は常にリラックスして勝負を楽しんでいた。

その違いの理由を、彼は「負けを認めているか否か」というところに見出していたのだ。

 

 

「負けを認める」とはどういうことか?

当時の私にとって、「負けを認める」ということは、「勝負へのこだわりを捨てること」に他ならなかった。

そういう意味での「負けを認める」であれば、さほど困難ではなかったし、確かに楽にプレーすることはできた。

 

ただしそれはただ単に勝負をあきらめて肩の荷を下ろしただけで、やはり結果はついてこなかった。

あらためて彼の方を見てみると、私よりも勤勉だったし、上手に周囲からの助言を役立て、おそらくは私からも参考にできるところは取り入れていた。

 

それでようやく私は気づくことになった。

自分はただ「勝ちたい」と思っていた、いや願っていただけだったのだ。

ただ勝負にこだわっていただけで、実際に勝つためにできることをやっていなかったのは私の方だったということだ。

 

そうすると改めて考える必要が出てくる。

だったら負けを認めつつも、向上心を持って勝ちを追い求めるにはどうしたらいいのだろう?

 

 

負けを認めて強くなるプロセスとは

年齢や生まれ持った身体条件、怪我や加齢のようなものは、もうただ受け入れるしかない。

あがいたところで届かないものには、負けを認めるしかないのだ。

 

私の考える「負けを認める」ということ、そしてそれによって強くなるためのプロセスは、だいたい以下のようなものである。

 

①現状を受け入れる
・自分の立ち位置、できることとできないことを見極める。
・自分はそれ以上でもそれ以下でもないと認識する
②未来に目を向ける
・失うものなど特にないのだと理解する
・向上するためにはアクションが必要だと意識する
③行動に移す
・あせらず、じっくりと実行する

 

 

まとめ

コラム記事はだいたい結末を想定せずに書き始めてしまっているが、今回のは結果的にポジティブシンキング講座かなんかで聞きそうな精神論に行き着いたようだ。

 

ちなみに私は、トライアスロンにおいては様々な点においてあらゆる負けを受け入れているが、アイアンマンのゴール間近で私を抜き去っていったあの小太りの中年ドイツ人女性にだけはいつか勝ちたいと切に願っている。