6月20日、ついにオリンピックチケットの抽選結果発表があった。
発表の日にちまで記憶していなかったので、昼休みにネットを見て思い出し、すぐに確認することにした。
チケットサイトに入るのには、待ち時間1時間以上の表示。
応募の時は、急ぐ必要がなく日をおいてサイトにアクセスすることにしたのだが、当落確認となると、はやる気持ちを抑えがたい。
さて、その結果は…
総額15万円ほどで申し込み、結局当たったのは…
今回の抽選で応募したのは、
- 陸上競技(決勝、予選とも複数スロット)
- 競泳(決勝を複数スロット)
- サッカー(予選1とトーナメント1)
- トライアスロン
だった。
見てのとおり、トライアスロン以外は超人気競技である。
倍率は公表されないので、漠然と「かなり高い」という認識があっただけで、1つも当たらないのが普通なのか、複数当たりえるのかもよく分からなかった。
チケットサイトの待ち時間画面を裏に放っておいたまま午後の仕事をして、ふと思い出してみてみると、マイチケットに入れるようになっていた。
で、結果はというと…
当選したのはトライアスロン(女子)のみ。
あとは全部落選。
微妙…。
というか、やはり気持ち的には残念。
全部落選という人が多い中、トライアスロンだけでも当たったのを喜ぶべきなのかもしれない。
実際ツイッターなどで見ると、トライアスロンを落選したという人も少なくはないようだ。
トライアスロンはチケットがなくても沿道からの観戦が可能は可能のようなので、チケットにどれくらいの価値があるのか、正直言って分からないところはある。
世界選手権などと違ってオリンピックともなると、チケットがないとほとんどまともに見ることができないのかもしれない。
であればチケットが当選したのはありがたい。
とは言っても…、というところである。
やっぱり新国立や、辰巳の新しい水泳場で観戦がしたかった。
そこは次のチャンスに期待したい。
オリンピックチケットをめぐる世の過熱ぶり
当選のメールが来たのは午後だった。
私はチケットサイトでの確認と前後したので、メールで「当選」の文字を見たのはもう結果が分かった後のことだった。
夜になって、支払いをしてしまおうとチケットサイトを訪れると、また入るのに待ち時間だ。
今回は30分くらいなので、他の作業をしながら待ち、マイチケットに到達。
すると今度は、支払いの画面に遷移する際にまた待ち時間が発生、また1時間以上とある。
仕方がないのでジョギングに出て、風呂に入った後の23時過ぎに見てみると、時間切れなのか、またチケットサイトに入るところに戻っていた。
待ち時間1時間だ。
あきらめて支払いはまた後日することにした。
抽選に応募するにあたっては、見たい競技や席の種類、価格、日にちなど、いろいろな検討に時間を費やした。
そこで思ったことは、「ああこれはやっぱり日本オリンピックではなく東京オリンピックなんだな」という事だった。
というのも、私は自宅から新国立など主な開催エリアへ行くのに1時間以上かかるものの、それでも関東圏に住んでいればこそ、仕事さえ休めればいくらでも観戦に出かけることができるのだ。
それもあって、競技日程についてはあまり気にせず、とにかく見たい競技に(タイトな予算には十分考慮しながら)応募することができたのだ。
東京から遠い場所に住んでいたら、きっとそうはいかなかっただろう。
やはりオリンピックというのは「国で」行われるというよりも、「都市で」行われるものなのだ。
というわけで地方での盛り上がりは不明だが、少なくとも関東圏である私の周囲では、人々はかなりの割合で高額な抽選申し込みを行っていた。
普段スポーツをしない、あるいは興味がなさそうに見える人でさえも、家族の分あわせて10万円以上分応募したという人が多くいた。
前述したチケットサイトへのログイン制限や、SNSでの当落についての悲喜こもごもを見ていてもその熱狂ぶりはよくわかる。
なぜ人々はオリンピックに熱狂する?
お祭り好きという日本人の気質もあるのかもしれない。
私も日常的に観るスポーツはサッカーくらいだが、国際大会となると大抵どのスポーツでも熱中してテレビ観戦してしまう。
陸上、水泳をはじめ、卓球、テニス、バレーボール、柔道や、冬のアイススケートなど、何でも来いである。
なぜ人々はここまでオリンピックに熱狂するのだろう?
なぜ自国の選手の活躍を願い、その短い期間中だけとはいえ熱中し、結果に一喜一憂するのだろう?
やはりそこには、少なくともここ日本という国においては、間違いなく「人種」という考え方が大きく影響するのだろう。
自分と同じ人種の人間が、他の人種の人間を打ち負かし、強さや優位性を証明してくれる。
「日本代表」という名の、自分に近い骨格や肉付きで、生まれや育ちの環境や習慣などが近いグループの代表者が競技に勝つことは、自分自身を肯定することに繋がっているのではないだろうか。
あるいは国家間でなく国内でも、地元の選手が活躍すれば人々は熱狂し、商店街にはパブリックビューイングが設置され、市役所には選手を応援する垂れ幕がかかる。
要は、自分により近いルーツを持つものが活躍することが、より自分自身を強く肯定することになるのではないか。
国際大会になった時、「国の代表」がほぼイコール「人種の代表」となるのは、日本のように移民や植民地支配の歴史が少ない国に限られるのだろう。
昨今ではMixed(混血)の日本代表選手が種々の競技でみられ、活躍が著しい。
人種差別的な発言に抵触しないことを祈るが、やはり彼らが、両親もその両親も日本人であるような代々日本人という選手とまったく同じように受け入れられ、まったく同じような応援を受けられているかというと、そうでもないように思える。
そこにはやはり前述のような、自分により近いグループの代表を、という思いが透けて見えているような気がしてならない。
他の国ではどうだろう。
ドイツに5年間住んだが、そのあたりの考え方に触れる機会にはあまり恵まれなかった。
ゲルマン民族の民族性を重視していた国だけに、日本と似た感覚はあるように思う。
フランスなどは、アフリカの国々を植民地としていた歴史上、黒人が多く、スポーツ選手にも黒人が多い。
フランスのような国では「国の代表=民族の代表」という考え方は希薄だろう。
スポーツの国際大会は代理戦争であり得るか?
オリンピックやワールドカップなどの大きな国際大会では、もちろん日本だけでなくどの国の人々も熱狂する。
フィールドの選手たちは文字通り、国の威信をかけて戦っているのだ。
そういった光景は、あたかも代理戦争のような様相である。
ワールドカップでオウンゴールを入れてしまったコロンビアのサッカー選手が、自国に戻ってから暴漢に射殺されてしまったのは衝撃だった。
まるで戦犯扱いである。
土地を奪う侵略戦争でもなければ、地下資源の利権やイデオロギーの対立による戦争でもない。
国家や民族の優位性を証明するための戦争だ。
スポーツを利用して代理戦争をしているうちは健全なようにも思えるが、スポーツが無かったらそうした人間の欲求や衝動はちゃんと処理されるのだろうか?
日本代表戦の時の渋谷スクランブル交差点の若者たちを思い出してほしい。
ワールドカップ決勝のスタジアムの興奮を想像してみてほしい。
メダルを逃し国民に申し訳ないと涙する選手のことを。
オウンゴールのコロンビア選手に銃口を向けた男の狂気を。
そうした全てが、スポーツではないもっと危険な方向に向けられたとしたらどうだろう。
「スポーツの魅力」などというのはとても健康的で道徳的な言葉に聞こえるが、少し見方を変えるだけで、それはずいぶん本能的で破壊的な響きを持っているようにも思える。
オリンピックは平和を象徴する祭典などではなく、平和を維持するための手段だったりするのかもしれない。
東京2020に向けて思うこと
さて話を戻す。
チケットの抽選申し込み、当落発表があり、とうとうオリンピックが現実的に近づいてきたんだなという感じがする。
今年の夏、それから来年の夏までの期間、クオリフィケーションや各種のプレイベントが目白押しとなるだろう。
何とも楽しみでしかたない。
スポーツに熱狂するのが人間の本能の表れなのであれば、それに抗う必要はまったく無い。
なにしろスポーツは、この上なく健全で道徳的な行いなのだから。
渋谷に集まって夜通し騒ぐのだって、ほんの少し節度をわきまえればまあいいんじゃないだろうか。
東京2020まであと少し。
最高のお祭りを心ゆくまで楽しもう。