こんな時でも「いつも通り」であることの、いかんともしがたい難しさ

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この新型コロナウィルス禍の中にあってはとても月並みではあると思うのだけど、「いつも通り」であることってなかなか難しいことだと思う。

 

外出自粛や営業自粛、学校の休校、テレワーク。

誰もが何かしらの影響を受け、いつもと違うことを強いられている。

そんな中でもできることなら「いつも通り」を維持したいことはいくつかあって、例えば食事などの生活習慣や、日々のエクササイズの運動習慣など、日常意識的にやっていることは変わらず続けていたいと思う。

 

それが物理的にままならない人たちには大変申し訳ないけれど、私の場合テレワークが多くなったり不要不急の外出を控えたりはしているものの、日常生活においてこれは困るということはあまりない。

なのでそうした生活習慣や運動習慣を維持することは原理的には可能なはずなのに、これがなかなかままならないのが実情である。

 

 

自粛生活でも毎日同じことの繰り返しで生きられる強さ

『きちんと規則正しい生活ができることが強さではない』

とは以前妻が言っていた言葉だ。

 

いつもきっちりしていて、同じ日常を丁寧に織り込むように生活できる人は一見強い人のようだけど、ルーティン化された日常を過ごすのは楽な生き方であって、それはむしろ弱さなのではないか、というような趣旨だったと思う。

「きちんと規則正しい生活をすること」が苦手な彼女の皮肉が多少こもっているようにも思う。

 

この言葉は正しいようでもあって間違っているようでもある。

 

昔ある友人と長く日常を共にしてその生態を知る機会があったのだけど、そこで彼の生活の中には同じことの繰り返しが人より多く含まれていることに気づいた。

早起きしてきっちり決まった時間ゲームをしたり、昼食がいつも全く同じメニューだったり、夜は同じ酒を決まった量飲んだりとか、そんなような類のことだ。

その生活スタイルはちょっとやそっとでは揺らがない、とても強固なもののように見えた。

一方、彼はチック症を持っていたり若干情緒の不安定なところがあって、繰り返しの多い生活はその不安定さをカバーする役割の一部を担っているように私には感じられた。

 

ある種の弱さを抱えている人は、それを意識的にせよ無意識的にせよ知っているからこそ、生活をルーティン化して生きているケースが少なくないように思う。

それによって安定した生活習慣を築いているというのは、弱さを知っていることの強さと言ったところだろうか。

 

このコロナ禍で、普段ある程度は節制した生活をしていると思っている私も、多少酒の量が増えたりしている。

通勤時間が無い日は二度寝したり、間食が増えたりもしている。

世間的にもこうした生活の乱れは子供から大人まで指摘されていて、さらに言えばアル中やDVなども世界的に急増しているという。

 

普段の生活を何とか理性的にコントロールしていても、今回の自粛生活のような大きな変化に見舞われると、結構ひとたまりもなかったりする。

同じことを繰り返すことで何とか自分を保っていた人たちは、今どうしているのだろうかと少し心配になる。

変わらず強固な生活リズムを刻んでいるのだろうか? それとも何某かの歪みが生じて苦しんでいるのだろうか?

 

 

コロナ禍でも世界を回し続けることを求められる人々

4月以降テレワークの割合が増え、週のうち1,2回しか出社しなくなっている。

仕事は基本すべてパソコンでできるし、スカイプ会議にもだいぶ慣れてはきたとは言え、やはり仕事の効率は従来通りとはいっていない気がする。

 

社内での情報共有ひとつ取っても、ヘッドセットの音質が悪くて聞き取りづらかったり、ホワイトボードに書けば一瞬で理解してもらえるはずの説明に時間がかかったり、近くにいれば軽く聞けることなのに通話だと躊躇してしまったり。

他にも在宅ワークの弊害で、イスが合わなくて腰が痛くなったり、サブディスプレイが無くて作業効率が悪かったり、なんだか仕事とそれ以外の境目があいまいになってしまったり。

 

そんな風に仕事をしていると、

「まあいつも通りにできなくたって仕方ないだろう」

と私なんかは考える。

こんな状況のわりはまあそこそこ出来てる方じゃないか、と。

 

しかし世間にも目を向けて見ると、「いつも通り」にやることを強いられている人がたくさんいることに気づく。

というより、こんな「いつも通り」がままならない状況の中で、「いつも以上」を求められている人がかなり多いことにも思い当たる。

医療従事者はもちろん、人手が足りなくなった接客業とか、子供が休校で家にいることでやることが増える兼業主婦だってそうだろう。

 

他にも、あまり注目も評価もされていない、「いつも以上」が求められる「いつも通り」をやっているひとたちはたくさんいる。

感染拡大の先が見えない中でも、テレワークができずに望まない満員電車に乗らざるを得ない人たち。

企業の社会的責任という名目のもとに、渡航延期勧告の国へ海外出張を命じられる人たち。

安いバイト代で不特定多数の接客をしなければいけないコンビニ店員。

 

「経済より命が優先」と盲目的に言ってのける、自宅でのんびりしているだけでも収入の下がらない人たちは、誰かが生産を、物流を、インフラを回していることに気付いているだろうか?

日本は諸外国のようにロックダウンをしていないからダメだなどと見当違いなことを言う人は、誰も働かなくても自分の口に食べ物が入ってくると考えているのだろうか?

コロナ騒動が落ち着いて日常が戻った時、世界がかつてとほとんど変わらない姿でそこにあった時、騒動の最中でも「いつも通り」働いて社会を回し続けた人たちに、相応の評価と賞賛がなされるだろうか?

ここのところそんなことが気がかりでならない。

 

もちろん、いつも通りの仕事を続けている人がいる一方で、徹底した巣ごもりをしたり、事態を重く受け止めいろいろな方法で「Stay Home」と呼びかけて自粛を啓蒙する人たちがいてこそ、今のような感染者数減少が実現できているわけでもあり、そのことは同じように認識しなければいけない。

個人個人がこうした「いつも通り vs 自粛」のバランスを取ることは難しいので、これは社会全体としてバランスが取れていないといけない。

そう考えると、結果的に日本ほどこのバランスをうまくやってきた国は、それほど多くはないのではないかという気がする。

 

 

当然のごとく蝕まれるトレーニングに対するモチベーション

そしてアスリートのみなさんである。

いまプロアマ、そしてスポーツの種別を問わず多くのアスリートが直面している問題、それは目先の目標の欠落である。

トライアスリートももちろん例外ではない。

 

個人的には2月にエントリーしていたマラソン大会が中止になって、今シーズンのトライアスロンのレース計画は全くの白紙である。

春から初夏にかけての大会は軒並み中止が発表されていて、夏から秋にかけての大会については早々と中止を決めているものもあれば、開催の方向で状勢を注視しているといった大会も多い。

 

我々市民アスリートとしては、とりあえずエントリーを受け付けている大会にエントリーして開催されることを祈るか、もう少し様子を見続けるか、それとも今年のレースは諦めてしまうかという選択肢がある。

いずれも出場できることが確実ではない以上、例年のような明確な目標とはなってくれない。

 

出るはずだったマラソン大会が中止になっても、トライアスロンレースが次々と中止を決めても、それですぐにモチベーションが著しく低下するかと言えばそうでもなかった。

トレーニングを習慣化していると、とりあえずは惰性のようなもので走ったり漕いだりを続けられるもののようだ(ジムがやっていないので泳げはしないけど)。

でもそれもちょっとしたきっかけ(いつもより仕事が長引いたとか、家族の用事で時間が取られたりとか)が手伝ってほころびができると、それを修復するはずのモチベーションが知らぬ間に蝕まれていたことに気づかされる。

ここでもやはりできるはずの「いつも通り」すらままならない現状がある。

 

低下したモチベーションを上げるために、新しいバイクパーツを買ってみたり、ウェアを新調してみたりはするものの、やはり大会出場ほど無尽蔵のモチベーション源というのは他に無いらしい。

特別な練習環境のあまり必要ない(スイムは別として)トライアスロンはまだいい方で、練習相手が必要だったり、練習場が必要だったりする競技となるとさらに打撃が大きいに違いない。

 

 

「いつも通り」にスポーツを楽しめる日常が早く戻ることを願って

最近サッカーが観たくてしかたない。

Jリーグが開幕して1試合は行われたものの、それからすでに2か月以上「おあずけ」を食らっている状態である。

 

サッカーだけでなく、コロナ自粛のこんな状況が続くと、スポーツに対する渇望がどんどん顕著になってくる。

自分がレースに出たいというのもそうだし、サッカー観戦も野球観戦も、その他のシーズンスポーツだってそうだし、それこそオリンピックでいろいろなスポーツを心ゆくまで堪能したいという気持ちもどんどん高まってきている。

 

東京2020は2021年に延期されたが、その時の安倍さんの声明に「ウィルスへの勝利の証として完全な形でのオリンピックを」とかそういった趣旨の発言があった。

政治的な話とは無関係に、私は個人的にこの言葉に強く賛同する。

 

スポーツはもっとも明確に世界を良いものにする要素だと私は思う。

だからこそ、その最大の象徴であるオリンピックが開けるレベルにまで世の中が回復して、清々と開催し、誰もが心ゆくまで平和と熱狂を享受できるように早くなってほしいと、今はただ願うばかりである。